親王殿下ご誕生おめでとうございます

-[ iza ブログからの転載 ]————————————

 最初のエントリを何にしようと考えましたが、9月6日は、やはり、秋篠宮妃紀子殿下のご出産に関してというか、日本の皇室についての雑記にしようかと…。
 
 
 思い起こせば、10代の頃の私は皇室に関して一切の関心がありませんでした。今上天皇が皇太子殿下だった頃、私の母親が美智子妃殿下(当時)の熱烈なファンで、何故うちの母親は、芸能人でもない人に憧れるのだろうと首をひねっていたものです。確かに品のある美人な方だとは思いましたが、何か芸を見せてくれる(大変失礼なことですが、まっ、若かったので…)わけでもなく、たまにテレビで手を振っているお姿を拝見するだけの人で、わけもなく大勢の人が傅いている人々という、皇后陛下も含めて私にとっての皇室の方々とはそういう存在でした。

 
 
 私の母親は昭和一桁生まれ。幼少時の彼女にとって天皇陛下という存在はまさに現人神。神聖にして冒すべからざる存在。そういう教育を受けて育ったのだということを後から知れば、皇室に嫁がれた元一般人である皇后陛下に憧れるのも、まぁ、至極もっともなことだと思います。母親が皇后陛下の年齢に近いというのも理由のひとつでしょうけど。
 
 
 そういう母親にしても、現在の皇室が日本国にとってどういう意味をもって存在しているのか、きっとわからないと思います。母親にとって、崇めることが当たり前の存在だったものが、さきの終戦を期に、なんだか曖昧なものになってしまったと感じているのではないでしょうか。世の中の論調は、なんとなく皇室の存在を否定しているように思えるし、ただ意味もなく憧れているとか、尊敬しているとかではいけないのではないかと、漠然とでしょうが、そんな風に考えているように思えます。今度会ったときに聞いてみようと思いますが。
 
 
 かくいう私も、20代後半までは母親と五十歩百歩。いや、それどころか、皇室なんて要らないとさえ思ってました。私たちの血税を無駄遣いしている寄生虫なんて考えたこともありました。
 
 
 それがゆるゆると氷解するように変っていったのは、仕事で米国に頻繁に行くようになってからです。米国はご存知のように国家元首は大統領。当時の私にとって、国家元首は大統領の方がより民主的でわかりやすく、そして憧れの対象だったわけですが、米国人や英国人とナショナリズムについて話す機会がたまたまありまして、なんにつけても自国を誇らしく語る彼らが、日本の皇室という存在に対して、一定の敬意を払ってくれていることがわかってから、それまでの自分の考えに違和感を覚えるようになったのです。
 
 
 人間というのは、社会性を無くしては生きていくことすら危うい生き物だと思うのです。だから人が生きるその場所に自然とコミュニティができるのだと思うのですが、国という存在は、そのコミュニティの集合体だと私は考えています。コミュニティに自然とリーダー的な存在が生まれるように、その国を安定して存続させていくためには、国家の代表、つまり国家元首が必要になりますよね。良い悪いは別にして、国にはリーダーが必要で、そのリーダーがどういう存在なのかによって、その国の性格が決まってきます。それはつまり、その国の国民のアイデンティティであって、個人的な性格やイデオロギーとはまた違うところに厳として存在し、我々をある意味で束縛し、また、我々の心の拠り所になるものだと思います。
 
 
 そのアイデンティティを失ってしまうと、私自身はどうなってしまうのだろうと考えてみたことがあります。完全なアウトロー。一匹狼。聞こえはいいんですが、なんとも頼りない存在です。私はよく一匹狼的だねと人から言われるのですが、日本国内ならともかく、海外においてアイデンティティを失ったアウトローな自分の姿を想像してみると、とても背筋が寒くなりました。日本で生まれ育ち、何を見ても、そして何をするにしてもまずは日本的な価値観でしか行動のできない自分が、日本人であることのアイデンティティを失ってしまったとしたら、本当に自信をもって、その地で生きていけるのだろうかと思ったのです。そんなことはない。私なら日本的なアイデンティティなんかなくても、どこの国でも生きて行けるという人もいます。以前の私ならそう嘯いたと思います。でもそれは、大した理由もなく日本が嫌いで、米国に憧れ、米国人になれたらなと思っていた頃の私の考えだからです。日本人のアイデンティティを捨て、米国人のそれを享受しようと無意識に考えていた私だからです。つまるところ、アイデンティティなんていらないというわけじゃなかったのです。
 
 
 3年間ほど、日本と米国を行ったり来たりしているうち、私の中に自然と日本人であることのプライドが生まれてきました。特別な根拠なんてありません。本来、私自身が持っている、また、成長する過程で多くの人から影響を受けた日本人としての考え方、日本人としての理想、日本人としての理念といったものが、海外の人のそれに比べてなんの遜色もなく、それどころか、誇っていいものだと気付いたとき、私は日本人を、そして日本国を愛し始めていました。とりもなおさず、私自身が日本人であったことに感謝するようになっていました。
 
 
 こうした意識とプライドが生まれたとき、日本国民を代表して外交してくださっている皇室の方々に対しての意識が変り始めたのです。良くも悪くも皇室という存在は日本的です。私が良くも悪くも日本的な日本人であるのと同じではないかと思います。それは、英国人と英国王室が良くも悪くも英国的であるのとなんら変りはないと思うのです。その存在自体を変える必要なんて何もないのだと思います。ましてや他国から干渉されて変えるものでは決してないと思います。それは決して悪い部分に目を瞑るというわけではなく、悪い部分があることをきちんと意識した上で、それでも自分のアイデンティティに自信を持つことが重要なのではないでしょうか。他国人との友好は、そこから始まるような気がします。
 
 
 皇室は要らないなどと今はもうまったく思っていません。それどころか、皇室があることで、私は海外でも自信をもって日本人だと胸が張れます。ここでは歴史の問題をとやかくは言いません。たとえ過去の過ちの責任が皇室制度にあったとしても(私はそう思いませんが)、ひとりの人間に対して過ちを償うために死を強制することが理不尽であるのと同様に、だから皇室制度を失くせというのは私にとって到底受け入れられないことです。なぜなら、皇室がなくなることで、少なくとも私のアイデンティティは崩壊してしまうからです。近隣諸国との未来志向の友好をというのであれば、私を含めた多くの日本人のアイデンティティを無視して成り立つはずはないと思うのです。
 
 
 最後になりましたが、親王殿下のご誕生を心から祝し、皇孫殿下の健やけきをお祈りし、今日の佳き日を寿ぎいたします。

 

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