自殺予防に法律が必要なのか?

-[ iza ブログからの転載 ]————————————
 

 今、日本では1日に約 1,000 人以上が自殺しているそうです…。
 
 
 私の同級生は、私が知っているだけでもう既に3人が自殺しています。いずれも今から約 20 年前。3人とも20代の頃です。そのうちのひとりは、私の中学時代からの親友とも呼べる3人の仲間のひとりでした。いつも人に気を使っている大人しい、とてもいい奴でした。彼がカメラマンになりたいと言って、専門学校に通っている途中のできごとでした。中学を卒業後、4人とも別々の高校に進学したのですが、自殺した彼には、高校時代も、専門学校時代も、我々以外に親しい友人はいなかったようです。中学卒業と同時に会う機会も少なくなってしまっていたので、彼の自殺の動機については誰にもわからないという状態でした。そして今でもわかりません。
 
 
 あれから 20 数年が経って、今では残された親友2人と会っても、彼の自殺について語り合うことなど皆無です。というより、3人の中では、彼の自殺に関してはタブーになっているような、そんな気がします。
 
 
 自殺のニュースを耳にすると、今でも彼のことを思い出します。思い出しはしますが、親友が死んだそのとき、私自身はどう感じていたのか、何を考えていたのか…。9 月 10 日「世界自殺予防デー」の日に行なわれた自殺対策フォーラムのニュースを読んでから、久しぶりに思い出してみました。で、思い出してみると意外なことに驚いてしまったのです。
 
 
 記憶の中の私は、悲しいとか、寂しいとか、そういう感情の部分がまったくの空洞なんです。正直焦りました。親友が死んだんだよ? 彼に対する感情はなかったのかよ! なんて無情な奴なんだ自分という人間は! そう自分に言って古い記憶野の中を引っ掻き回していたら、いつの間にかしっかり蓋を閉めて奥の方に追いやっていた、激しかったはずの感情が見つかりました。
 
 
 彼の小さなお通夜が終わって、自宅までの帰り道、彼が自殺したことに無性に腹を立てていた自分がいたんです。「なんで黙って逝ったんだ! なんで逝く前に一言相談してくれなかったんだ!」と繰り返して腹を立てていた私です。でもそれは、親友の死に対する悲しみの感情によるものではありませんでした。それは自分の命を自分で絶つことに対する嫌悪感であり、残された人に対する無責任さを責めるものであり、なにより当時の私が一番嫌いだった「人間の弱さ」に対する腹立ちでした。そして、この「腹立ち」の感情に続いてみつかったのは、「自分は絶対に自殺なんかしない。自殺なんて弱い人間のすることだ! 俺は未来は自分で切り開く。幸せな人生を歩んでやる」という、もっともらしくて青臭い感情でした。
 
 
 不惑と知命の中間に位置して思い返せば、果たして私は自分の未来を自分で切り開いてきたのでしょうか。これからも自殺なんか絶対にしないと言い切れるのでしょうか。そして、自殺した人の弱さに腹を立てることができるのでしょうか……。わかりません。ただ今、言えることは、自ら死にゆく人を止めるのに、法律なんて無力だということ。
 
 
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 ここからがタイトルに関連するお話です———-今年の6月、「自殺対策基本法」という法律が成立しました。この法律の成立には、自民党の武見敬三議員、民主党の山本たかし(孝史)議員が奔走したようです。武見敬三議員は「朝まで生テレビ」で「拉致は安全保障問題に優先する事柄ではない」と発言して、拉致問題を矮小化する発言だと顰蹙を買った議員。山本孝史議員は、外国人参政権の成立に積極的な人物。
 
 
 穿った見方かもしれませんが、「自殺対策基本法」がこの2人の議員の尽力によって成立したというのがとても不安です。飛躍しすぎだとお叱りを受けそうですが、「自殺は人権の蹂躙によって行なわれるもの」だから、「自殺対策基本法は人権を守るための法律」だから……。これ以上は今書くのはやめましょう。もう少し勉強してから書きます。————–私の不安が杞憂でありますように。

 

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