スタグラのトップからの鶴の一声で、先日の「 しだれ桜の金屏風 」を撮影したときの奮闘記を「 髭達磨のプチ日記 」を書くことになり、再度みごとなしだれ桜が咲く浄福寺へと伺った。先日は夜の撮影だったので、ご住職の自宅へと撮影許可の挨拶に伺ったが、今回は真っ昼間なので挨拶はまぁいいかなと。
で、まぁ、「 しだれ桜の金屏風 」の撮影現場がここ。どうやって撮影したのかは「 髭達磨のプチ日記 」で書くのでここでは省略。じゃぁ何を書くのだというと、ちょっとした自分語りなので、興味のない方は「 そっと閉じ 」してちょうだい。
今日は 4 月 8 日。仏教徒にとっては灌仏会( かんぶつえ )というお釈迦様のご生誕を祝う日。別名「 花祭( はなまつり ) 」とも呼ばれ、仏教の宗派に関わらず共通した祭事だ。ただ某宗派は偶像崇拝だといってやらないみたいだけど。
今では宗教嫌いを標榜する僕ではあるが、この日は何かと思い出がある。というのも「 八王子城跡 」のエントリーでも書いたが、僕の義祖母は日蓮正宗大本願尼だった。義祖母というと僕の妻の祖母だと勘違いされそうだが、正しくは僕の実母の養母だ。よって戸籍上も正しくは実際の祖母になるのだが、僕はずっと義祖母と言い続けてきた。なぜなら母の実の両親が正しい祖父祖母であり、養母は義祖母なのだと思い込んできたからだ。
僕の母は 9 才で父親を 11 才で母親を亡くし、妹と二人で孤児となった。時は終戦の直前、昭和 20 年の 1 月だった。時代背景もあるし、親戚筋も就学前の幼児を抱えている家が多かったらしく、母とその妹( つまり叔母 )は、大本願尼をしていた女性「きち」さんの養女としてもらい受けられることになった。母はきちさんの養女となってからは、大本願尼の弟子さながらの生活を送ることになったという。
母を養女として迎えた頃のきちさんの年齢はよく調べないとわからないが、当時としてはかなり高齢だったようで、きちさん自身の死後の段取りを、まだ幼かった母にもよく話してくれたらしい。その際、本気であったかどうかは不明だが、大本願尼の位を母に譲ろうとしたこともあったという。きちさんが抱えていた養子は母以外にも数人いたし、実子も男女数人はいたのだから、筋としては甚だ問題がある。母は当然のように恐れ多いと断ったそうだ。
僕は幼少の頃から母の語りによって会ったことのないきちさんの人となりを自身の頭に日頃から思い浮かべて成長してきた。大本願尼という地位がどういうものかもわからなかったが(今もわからないが)、母が語るきちさん像は、気象学が未発達だった時代の卜者(ぼくしゃ)であり、仏のお告げを伝えるシャーマンであり、そして僕の出身地の田子という漁師町の普通のおっかさんであった。現在の僕は自分自身をリアリストだと認識しているつもりだが、幼少時は少なからずシャーマニズムに影響を受けていたし、興味も持っていた。実際、シャーマニズムな概念を持っていないと理解できない事象に何度も遭遇した経験を持っている。だからといって僕は「 スピリチュアル 」などという甚だイカガワシイ用語は使いたくないし、その言葉を持ってメディアに露出している人々とは大きく距離を空けていたいと思うほどにはリアリストである。ただ、現在もなお自身の周りで起こる不可思議な事象は否定できないでいる。いや、もともと否定するつもりはまったくない。否定するつもりはないが、根拠も理屈も抜きにして肯定したくないだけなのだ。そういう思いは小学生時代から持っていて、その手の図書を漁るように読んだこともある。できるだけ、そうした非科学的な事象を科学的に分析して説明してくれそうな書籍だけを選ぶようにして………。
あれれれれ、花祭の日に際して母ときちさんのことを簡単に書こうと思っていたのだが、どうやら長い長い自分語りになりそうなので、今日はここら辺でやめよう。ただ、これをきっかけにして僕という矮小な存在のルーツを書いていくことにしよう。誰に読んでもらいたいわけでもなく、子供のいない僕の未来に向けた存在証明書作りみたいなつもりで。